誘いの小箱



 今年の夏、祖父が死んだ。
 大学で長年、教授を務めていた祖父は、ある日突然、教授職を辞すると、大量の食料を買い込み、自宅に一人で籠りっきりになってしまっていた。それ以来、生きている祖父を直接見たという者は一人もいない。日曜日の教会にすら一度も顔を出さなかったという。
 母は週に一度だけ、電話で祖父と連絡を取り、無事を確認していた。
 母も最初の頃はその電話で何度も、
「何があったんですか、お父さん? 心配事があるなら、ボストンの私の家で一緒に暮らしましょうよ」
 と、祖父を説得し続けたが、その話題になると祖父は何も言わずに電話を切ってしまうので、半年も経つと、諦めてしまった。

 私の運転する車で、私と母はノーフォークにある祖父の家に向かった。
 郵便受けはいっぱいになり、『M大学 創立××周年記念式典のお知らせ』の手紙がはみ出していた。
 家中は激しく荒らされていた。異臭を放つ書斎には、胸部がざっくりと開かれた祖父の死体が横たわっている。よく見るとその右腕は真っ赤に染まり、肋骨を握っていた。更にその間には真っ赤に染まった斧が転がっていた。
「お父さん! そんな……、なんでこんなことに……ううっ!」
 実の父親のあまりに惨い亡骸を目にした母親は涙を流す前に、まず、嘔吐した。吐瀉物がカーペットを汚す。書斎はいよいよ尋常ではない臭気を放ち出し、その臭いのせいで、思わず私も嘔吐しそうになった。しかしそれを何とか押さえつけ、携帯電話で警察に連絡した。

 不思議と、祖父の死≠サのものにはあまり感慨が湧かなかった。確信に近い予感があったからだろう。しかしそれは老衰とか、或いは病気による死というものであり、現実に祖父の身に起こった出来事は私の想像を逸していた。
 検証の結果、祖父は自分で自分の胸を切断したというのである。更には部屋を荒らしたのも祖父自身だという。

 祖父の遺体が埋葬された日。私は、母から一つの箱を受け取った。
 当初、祖父の死は殺害によるものと見られていた。
 それ故、自殺と断定されるまでは、祖父の死体の他、遺留品と呼べそうな物全てが警察で保管されていたのだ。
 私が母から受け取った箱もその一つ。その箱は書斎にあった物で、母や私には見覚えのない物であった。祖父がいつどこでそれを手に入れたのかも分からない。
 箱には、深海魚を思わせる、奇妙な生物を象った装飾が、側面や蓋のみならず、底にまで施されていた。そのあまりの気味の悪さに、母は中身も見ずに処分したがっていた。結局「この箱も祖父の遺品の一つなのだから」と捨てるのを惜しんだ私が譲り受けた。
 箱には丸い穴が開いていた。恐らくは鍵穴なのだろうが、残念ながらその鍵は見つからなかった。

 箱を受け取ったその日、いつものように鍵を掛けた自室で眠っていた私は夢を見た。
 夢の中で私はあの箱を開ける。鍵は白く湾曲し、先端の尖った『何か』であった。中からは数匹の異形の怪物が飛び出してくる。その怪物たちは、いずれも魚類か両生類を思わせる顔つきと人間の身体を持っていた。そして、人に近い、しかし獣じみた声で何やら叫びながら、私の身体を貪り始める。
 最後に怪物が私の眼にかぶりついた瞬間、私は飛び起きた。
 体中から汗が吹き出し、全力で何百メートルも走り終えた直後のように心臓の鼓動が波打ち、顔はほてっていた。だというのに、まるで極寒の中にいるかのようにがたがたと体が震えている。
 例の箱には何の変化もない。私はその箱を床に思いっ切り叩きつけた。しかし恐ろしく頑丈なその箱は、割れるどころか欠けることすらない。何度試しても結果は同じ。この箱を開けるには鍵を使うしかない。私は夢の記憶を頼りに、鍵の代わりになるものが何かないかと、部屋中を物色し始めた。明らかに夢に出てきた鍵と形状が異なるものでも、穴に入りそうな棒状の物ならば何でも試す。

 但し、部屋の外にある物は試せない。
 部屋の外に出られないからだ。
 扉を開けた瞬間に、夢に出てきたあの怪物たちが部屋に侵入してくるという妄想・幻想が拭えない。しかし、こんな小さな箱の中には、何もいるはずがない。開けてみれば分かることだ。だから開けなければ! 何としてでも! 開けさえすればきっと、『部屋の外の怪物』の幻想もきっと消え去ってくれる。その為に鍵がいるんだ! 鍵が! ああ、だが夢の中で見たような物の代用品が中々見つからない! このロザリオも駄目だっ!! くそっ!! くそっ!! ……いや、本当は気付いている。代用品となり得そうな物の存在に。気付いているのに無視しようとしているのだ、今は。

 しかし最終的にはそれを鍵として使おうとするだろう。その瞬間はすぐに訪れるはずだ。
 この部屋は、祖父の家よりもずっと狭く、物が少ないのだから。


【了】



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